生きること・死ぬこと その壱

2013年08月28日 11:30

その後母は、日毎に意識がはっきりしてきた。
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7月の中旬頃には生来の好悪の激しい気質を表出させ、担当医や看護師を戸惑わせた。


やがて日中は半身を起こして、呂律が怪しいながらも、面会に訪れた私との会話が成立するようになり、体も徐々に動かせるほどの回復を見せてきた。
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入院4日前に電話で話したのが最後だと、諦めていた私にとって母が意識を取り戻したのは嬉しい出来事であった。


しかし‥‥。
母自身にとって意識の回復は必ずしも歓迎すべきことではない。

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戻ってきたのは意識だけではなかったからだ。


10年ほど前、母は家の中で転倒し、腰に近い部分の背骨を圧迫骨折した。以来背中や腰に痛みを覚えるようになり、やがて歩行に支障を来たすまでに悪化した。

その痛みが、意識と歩調を合わせるように戻ってきて、再び母を苦しめ始めたのだ。


今回担当医と最初に会った際に言われた言葉が蘇ってくる。
「苦痛を感じないという点で、意識のないことは本人にとっては幸いなこと‥‥」

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だから、病床で顔をしかめて痛みを訴える母を見ている私の心境は複雑なものだった。


7月23日、その日は母が救急車で搬送され緊急入院してから1ヵ月目にあたる。

この日を過ぎれば母の余命は月単位になると、私が次の目標にしていた日であった。勿論、私の勝手な思い込みと希望的観測であることは承知している。

ところが、その日を翌日に控えた7月22日午前9時40分、病院の看護師から電話がかかってきた。
「お母様の血圧が下がってきたので、ご連絡させてもらいました」
「それはつまり、危篤状態ということでしょうか?」と私は即座に訊いた。
「いえ、そこまで切迫した症状ではないのですが、一応息子さんには連絡したほうがいいと思いまして‥‥」と看護師。
「分かりました。これからそちらに行きます」私はそう応えると、急いで身支度をして自転車を駆った。



私が病室に入ったとき、母は酸素吸入を受けているにも拘わらず苦しそうに呼吸をしていた。
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見ると、吸入させている酸素量の値はMAXを示している。


病室に来た看護師に母の容態を訊いたら「薬の点滴で血圧は正常値に戻りました」と説明してくれた。
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その点滴の効果が表れたのか、母の呼吸が徐々に穏やかになり、正午前には表情も和らいできた。


それでも投与している酸素量は高い値を維持したままだ。
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昼過ぎ、私が報せを入れていた市外に住む叔母が顔色を変えて駆けつけてきた。これまでの経緯を教えると、叔母は安堵の表情をうかべた。


それから叔母と2人、たわい無いことを病床の母に話しかけ続けた。
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母は自発的に言葉を発しないが、我々の問いかけに「はい‥‥はい‥‥」と応える。


母の容態が落ち着いたのを確認した叔母は、夕刻帰っていった。
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そして、しばらく病室に残っていた私も、看護師に挨拶をして病院を後にした。


その日の深夜だった‥‥。

薬を服用したが、それでも寝付けず輾転反側していたとき、私の携帯が着信音を発した。
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それは、母の血圧が再び下がってきたとの病院からの報せだった。
携帯の着信履歴は、日が替わった23日の午前2時6分を表示していた。



私は街灯の少ない夜中の暗い道を、病院目指して自転車のペダルを懸命に漕いだ。
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病床の母は数時間前とは打って変わり、虚ろな目で天井を見詰めたまま微動だにしない。
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そんな母の顔に自分の顔を近づけ、いくら話しかけても酸素吸入マスクを装着された母の口から漏れるのは苦しげな呼気だけだ。


そのうちに目の前にある心拍数、血圧、呼吸数などを表示するモニターの数値が徐々に下がってきた。
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私は更に声をかけた。「家でサクラが待っているんだ‥‥、サクラに会いたいなら気をしっかり持って!」


すると、私の呼びかけが聞こえるのか、モニターの数値が一時的に上がる。だが、すぐにまた下降していく。
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そんなことを繰り返しているうちに20台だった呼吸数が10台になり、ついに一桁になった。そして血圧は、いつの間にか計測不能の表示に替わっていた。


それでも私はモニターを横目に、酸素吸入マスクに触れんばかりに顔を近づけ懸命に母へ声をかけ続けた。
「川が見えるかもしれないけど、その川を渡っちゃダメだよ!対岸に知った人がいても、近づくんじゃないよ!!」
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でも母は私の声にもう反応しなくなった。それに瞬きをしない母の目は何も見てはいなかった。
そして母は僅かに脱力し、ゆっくりと呼気を吐き出した



すると、今まで不規則な波形を描いていたモニターの描線が一斉に平坦になり、直後ピーッという無機質な音が病室に鳴り響いた。
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それが、母の最期だった。
モニターのデジタル時計は午前4時55分を表示していた。



ややあって病室に駆けつけた当直医が、母の死亡を確認した。
そのため、死亡診断書の死亡時刻と実際の死亡時刻には数分間のズレが生じた。


母の死因は『骨髄異形性症候群』という血液の癌である。
急性白血病に移行することもあるため『前白血病状態』とも呼ばれる。


母が骨髄異形性症候群と診断されたのは2年前の夏、そして発症したのが去年の夏だった。
余命宣告された後の経緯は前回の記事に記した通りだ。


私は今回、人が死にゆく姿を初めて目の当たりにした。弟の死に目にも父の死に目にも間に合わなかったのだ。

人の死は厳粛さを感じさせるものだというが、私が受けた印象は違っていた。

私はただただ不可解だった。
数分前には生体だった人間が、今は遺体と名を替え物言わぬただの物体になったことが


生命活動を停止しただけで、目の前にいるのは母に相違ないのに、だ。

『死は生の中にある』以前、何かで読んだ文章である。
正確な言い回しではないが、意味としては死は生の対極にあるのではなく、生の一部に含まれている、という意味だったように記憶している。


私自身はその文言を読んだ際、“死”は非日常的な出来事ではなく、極日常的な出来事だと理解した。
つまり、“死”は私たちの身の回りのそこかしこに潜んでいるものだと。


電柱の陰や駅のホームの隅や非常階段の踊り場やコンビニの雑誌コーナーにひっそりと佇んでいるのだ。
あまりに身近な存在である“死”を、だから人は恐れ忌み嫌うのだろう。


母を最期を看取った私は、死がもたらす変化をにわかに受け入れることは出来なかったが、死そのものは肌で触感したように思う。

死の訪れは決して劇的なものではなく、柔らかい風のように母の身体の中をすうっと音もなく通り過ぎていったのだ。

結局‥‥。
母の強い生命力を以ってしても、医師の見立てを三度覆すことは出来なかった。



一番列車で駆けつける2人の叔母がそろそろ病院に到着する頃だろうと思い、私は通りへ迎えに出た。
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病院前の駐車場でぽつねんと佇んでいるときだった。
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何処からともなく現れた1匹の猫が真っ直ぐ私に向かって歩いてきた。


そして鳴き声を上げながら、いきなり体をすり寄せた。
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私にとっては初見の猫である。
首輪をしていないが、人懐こいところをみると飼い猫かもしれない。



その茶シロの猫は腹が少し大きく、一目で妊娠していることが分かった。
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「そうか、君のお腹には新しい命が宿っているのか‥‥」
さらに、茶シロを撫でながら「元気で丈夫な子供に育つといいな」と私は話しかけた。



身重の茶シロは私に何かを訴えるかのように、なかなか足許から離れない。
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枯れ草を相手に独り遊ぶ茶シロ。どうやらまだ若い猫のようだ。


顔をよく見ると、かなりの美猫である。
「器量良しだねぇ、君は‥‥」

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母も若い頃、美人の誉れが高かった。同級生に「お前の母さん美人だなぁ」と何度か言われたことを憶えている。


母の命の火が消えるのを見た直後に、新たな命の胎動に触れた私は不思議な因縁を感じずにはいられなかった。
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ふと見上げると、母が入院してちょうど1ヵ月目の朝陽が東の空を白く染めて昇っていた。


その時私は、まだ知らなかった‥‥。
母を亡くしたばかりの我が身に、更なる悲しい別れが、それも絶望の淵へ突き落とされるような別離が訪れることを。



【お断わり】
当日撮影した以外の写真が数点含まれています。



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