声 (後編 1)

2015年08月02日 11:00

私の良心や道徳観を統べる “厳格な審判者” は執拗に付きまとってくる。

そして私が抱えつづけている罪悪感をネチネチと責め立て、さらにまだ癒えない心の傷を無遠慮に突っついてくる。

それでなくてもコイツにはいつも「ああしろ、こうしろ」とか「それをするな、あれもするな」と命令口調で諭されるので心底辟易している。

アスカに対しては自分でも罪の意識があるのだから、正直でしゃばってほしくない。


避妊手術を受けさせるためのランの捕獲は一度失敗していたが、それから2日後のこの日、実に呆気なくランはキャリーバッグに収まった。


ランは自分の自由が完全に奪われたのを悟ったらしく、キャリーの中で大人しくしている。


が、ランの身に起こったことがどうしても理解できない幼いアスカは、キャリーに近づくと哀しげな鳴き声で母を呼ぶ。




そして母に触れようとキャリーの僅かな隙間に鼻先を突っ込み、爪でこじ開けようとする。



しかしアスカの努力は簡単に報われない。


ところが母を慕うアスカの執念は思いのほか強固で、身も世もない悲痛な声を上げながらなおも母への接近を試みる。


親子の情愛というのは、おそらくこの世でもっとも尊く、唯一無二の愛の有り様だろう。

“猫は情が薄い” などと言う無知な輩に、この光景を見せてやりたい。



いっときとはいえこの仲睦まじい母子の仲を裂くことに、私は心に激しい痛みを感じ始めていた。


キャリーバッグとの格闘をようやく諦めたアスカだが、母の側から離れようとしない。


《 アスカお願いだ、そんな顔で私を見つめないでくれ‥‥》
私は悲哀と困惑の混じったアスカの双眸を目の前にして、胸が締めつけられる思いになる。



「ごめんよアスカ、私だってお前たち親子を離ればなれにしたくはない。でもお母さんのために手術を受けさせてやりたいんだ」




「お母さんは明日の朝にはここへ戻ってくるから、独りで寂しいだろうが一晩我慢してくれ」


しかし生まれてから今まで、文字通りランに寄り添ってきたアスカにとって、1日は永遠と同じかもしれない。


困惑、絶望、悲嘆、不安、恐怖、諦観‥‥。
このときのアスカの表情をどう書き表せればいいのか、残念ながら文才のない私には適切な描写ができない。



そのアスカが私に近づいてくる。


自分の母を “四角い箱” に閉じ込めたのは私だと分かっているのに、それでも私を慕って体を寄せてくる。

「アスカ‥‥」


[ 今回の記事を書くために当時のことを回想していると、辛くてたまらなくなる。いじらしく、痛ましく、そして可愛いアスカの姿を思い出して ]

[ 生後5カ月の野良猫が示してくれたこの信頼と情愛に、私はどう応えればよかったのだろう? ]





[ いや、そもそも私はこの母子の情愛に対して、誠実に応えようとしていたのだろうか!? ]



私は熟慮の末に、アスカも捕獲して去勢手術を受けさせることにした。


この日は生憎キャリーを一つしか持参していなかったが、小さなアスカなら搬送の手段はほかにもあった。


まずランが収まったキャリーを防砂ネットフェンスの胴縁に吊るして、アスカの注意を逸らせる。


すると案の定、アスカは母を追ってキャリーの下へとやって来た。


そして母が入っているキャリーを見上げながら、いっそう哀しい声で鳴き始めた。


その声を聞いたランは息子を諭すように優しい声で応えている。


私はアスカに近づき、できるだけ穏やかな声で語りかける。


「アスカ、おとなしくこの中へ入ってくれるかい。そうしたらお母さんと一緒にいられる」
私はそう言いながら洗濯ネットを差し出した。


アスカは押し黙っている。まるで私の言葉の真意を測るかのように。
《 幼いとはいえ、やはり野に暮らしてきた子だから唯々諾々とは従わないか‥‥ 》










だが私の危惧をよそに、アスカは素直に洗濯ネットに入ってくれた。


こうしてランとアスカの捕獲は成功裏に終了した。


私はいったん自宅に戻り、アスカをキャリーに移し替えて動物病院へ向かった。


初めての場所、そして初めて多くのニンゲンやペットたちの側に身を置くランとアスカ、ふたりは怖れを感じているのか、それとも安らぎを感じているのか、身じろぎもせず黙っている。


やがて係の女性の手によってランとアスカは手術室へ運ばれていった。



夕方、ふたりを動物病院から引き取り、そのまま部屋に連れて帰る。


まだ麻酔から完全に醒めていないのだろう、ランとアスカはうんともすんとも言わない。


私はぐったりとしたランとアスカを抱きかかえ、前もって用意してあったソフトケージの中に移した。


避妊手術は開腹するため時間もかかる。だから同じ全身麻酔でも、その分強くかけるのだろうか、アスカに比べてランの覚醒は明らかに遅れている。


一方去勢手術を受けたアスカは上体を起こすほどには覚めているが、いわゆる腰が抜けた状態で立ち上がることができない。


そんなふたりはトイレに行けないので、数時間ごとに床替えをした。

夜中過ぎの床替えの際には、ランは穏やかな表情を見せていたし、アスカは私が撫でるとごろごろと喉を鳴らすまでに回復していた。


〔 うぬっ、黙って聞いておったが、とどのつまり、おぬしは野良猫の母と子をかどわかし、本人が望まぬ手術をさせたと申すのか!? 〕

〔 かーっ、むごいことをするものじゃ。生き物の根源的な、子孫を残したいという欲求を奪うなど悪逆非道な所業ではないか! 〕

「仕方ないだろう。こうしないと “不幸な子” が生まれてくるんだから」。

〔 ほほお、これは異なことを申すな。生まれる前から不幸になると如何にして分かる? 〕

「実際に毎年10万以上の猫が保健所や愛護センターで殺処分され、そのうちの2割が飼い主からの持ち込みで、さらにその半分以上が生まれたばかりの仔猫というのが現状なんだ」

〔 それは解せぬ。いったいどのような理由で仔猫を捨てたり、殺されるのを知っていながらそのような施設に持ち込むのじゃ? 〕

「それは私が知りたいくらいだ。ただ言えるのは、それだけ無責任で無知な飼い主が多くいるってことだろ

〔 さてもさても、嘆かわしい‥‥ 〕

〔 己の気分次第で、家人同然の犬猫を簡単に打ち捨てる、度しがたい痴れ者が数多(あまた)いる国など、早晩滅びるが必定。かような時代に綱吉公がおられたらどんなに悲憤慷慨されるか 〕

「なあ、あんた、時代錯誤もたいがいにしろよ。大体どうして侍言葉なんだ?」

〔 気にいたすな、この物言いは飽くまでもそれがしの趣味嗜好で他意はない。それはさておき、その後野良猫の母と子をどうしたのか有体に白状せい! 〕


翌朝7時、ケージを開けるとすぐにランが出てきた。そして浴室をしげしげ観察し始める。


育ち盛りのアスカは、丸一日絶食した分を取り戻すかのように朝から食欲旺盛だ。


ランは食欲こそないが目の動きも機敏になり、麻酔の効果はほぼ失せている。



そう判断した私は、ふたりをリリースするために海岸へ赴いた。







ところがこのあと、私は予期していなかった精神状態に陥ることになる。



〈つづく〉



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コメント

  1. Miyu | URL | -

    こんばんは

    読ませていただきました。
    ランちゃん、アスカちゃんはどうなるのでしょうか?
    無事手術を終えて・・・
    もう続きが読みたいです。
    アスカちゃんは、どなたかが保護したのでは・・・と・・・。

    アスカちゃんが、お母さんを思う顔が切ないですね。
    猫は、大変頭の良いこだと日頃から思います。
    人間と同じような感情が伝わってくるのですから。

    悲しい時、必ずそばに来てくれるのですよ。
    続き・・・待っています。

  2. wabi | URL | 0MXaS1o.

    アスカのこと

    Miyuさんへ

    後編を一度に更新できなくてすみません。
    当時のことを思い出していると、心が千々に乱れて
    いつにも増して執筆が遅くなりました。

    行方知れずになったアスカのことが未だに忘れられず、
    その自分の気持ちを整理するために当時のことを振り返っています。
    果たして自分のしたことは正しかったのか‥‥。
    ほかの選択肢はなかったのか‥‥、と。

    答に逢着できるかは分かりませんが、自分なりの結論は見つけたいと
    思っています。

  3. おこちゃん | URL | -

    アスカの眼差しを見ると、一日でも親子を離せないと思います。
    一緒でよかったです。
    一日離れている間に もしも別れ別れになっても可愛そうですから。
    wabiさんも 別々だと 両方が気になったのではないかと思いますー。

    キャリーや洗濯ネットに入って 大人しくしていたのは、
    wabiさんとの信頼関係が深く出来ていたのだと思いました。
    それだけに アスカがいなくなってしまった事は 辛かったのでしょうか。

  4. wabi | URL | -

    再体験

    おこちゃんさんへ

    あのときランとアスカを引き離すのは心が痛みました。
    とくにアスカの悲しがりようは、見ていて辛かったから
    ふたりを同じ日に捕獲できて良かったです。

    アスカがいなくなったことは、今でも心に深い傷として
    残っています。
    だから再体験のつもりで今回の記事を書いて、
    自分の気持ちの整理をしようと思っているのですが‥‥。

  5. マコ | URL | -

    WABIさんの深い、大きな、愛情以外感じません。
    アスカちゃんの切ない姿を見たら、私も同じ事をしたと思います。
    野良猫の悲しい定めを考える度に、悲しくなりますね・・・憤りも。
    WABIさんは、アスカちゃん、ランちゃんに幸せを差し上げたのです。
    きっと、何処かで幸せに暮らしています。
    心の傷が消されますように・・・。

  6. wabi | URL | -

    愛情の深さ

    マコさんへ

    恐らく私は海岸猫に愛情を注ぎ過ぎているのでしょうね。
    ある程度の距離を置いて、あまり感情移入しないようにしていれば
    苦しむこともないのだと思います。
    でもそれは私の性格上、無理なのです。
    厳しい環境で暮らしている猫を見ると、どうしても気になって、
    それがいつの間にか愛情へ替わってしまいます。

    アスカは一泊とはいえ一度家に入れた子ですから、よけいに思い入れが強く
    後悔に暮れています。

    優しいお言葉ありがとうございます。

  7. ねこ眠り | URL | -

    こんにちは 
    何が正しくて 何が正しくないのかは 分からないけれど、 wabiさんが これ以上 苦しまれませんように・・・  アスカちゃんが 幸せでいますように・・ 猫も 犬も 人間も・・ 動物皆が 暑くて痒かったり 寒くてひもじかったり 痛くて苦しかったり 辛くて寂しかったり・・しないといいな。と 人が聞いたら 笑われるかも知れませんが そんな気持ちで ちょっと 泣きそうになりました。 

  8. wabi | URL | 0MXaS1o.

    笑う人はいません

    ねこ眠りさんへ

    はじめまして。
    そしてコメントありがとうございます。

    何が正しくて何が正しくないのか、難しい設問ですね。
    答は人それぞれ違っているでしょうし、正解は誰にも分からないでしょう。
    我々人間を含めた生き物全てが幸せに天寿をまっとうできればいいのでしょうが、
    今はまだそういう状況ではありません。

    だから‥‥。
    少しずつでもいいから、そういう世界を目指して何かをしたい、というのが
    私の願いです。

    私へのお気遣い感謝しています。

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