声 (後編 2)

2015年08月17日 00:00

私は不妊手術を終えたランとアスカを元のエリアに戻すために、朝の海岸へ赴いた。





ところがこのあと、私は予期していなかった精神状態に陥ることになる。



潮の香りで自分たちのテリトリーに戻ってきたのが分かったのだろう、キャリーバッグを開けるとランとアスカはすぐに外に出てきた。


アスカはいつも遊んでいる草むらに分け入り、ランはその様子を横目にゆっくりとした歩度で先へ進んでいく。


麻酔の影響か、それとも丸一日横になっていたからか、ランの足取りはいつもに比べて若干覚束ない印象がある。


ランも一歩一歩自分で足の運びを確かめるために歩いている様子だ。


それを裏付けるように、ランは20メートルほど進んだところで腰を下ろすと、何をする訳でもなくじっとしている。


ややあって、おもむろに立ち上がったランはその場で踵を返すと、さっきより幾分しっかりした足取りでこちらに向かってくる。


開腹手術からまだ24時間経っていないが、ランは切開部分を気にしている仕草をこれまで一切見せていない。どうやら手術跡は順調に回復しているようだ。


とはいっても、ここ数日間は体調の変化に注意する必要がある。なんとなれば、避妊手術のせいで数日後に死亡した事例もあるからだ。


おそらく身体を休めるためだろう、防砂林の中へ入ろうとしたランは、不意に立ち止まると私を顧みた。そのときのランの表情には、私に何かを言いたそうな風情があった。



しかしランは何も言わず、エサ場のある植込みの中へ姿を消した。


母の行方を目で追っていたアスカだが、常ならぬ母の様子に戸惑っているようだ。


だが食べ盛りのアスカにとって、当面の問題は今抱えている空腹を満たすことにあった。





食欲の戻らないランが気がかりだったが、いつまでも海岸にいる訳にもいかず、夕方様子を見に来ることにして、私は帰路についた。

このときの私は、ランとアスカのふたりにはできるだけのことをした、という充足感を覚えていた。
ところが‥‥。



国道を渡って20メートルほど住宅街に入った頃だった。

それまでまったく予期していなかった感情の波に、私が襲われたのは。

鼻の奥に痛みが走った直後、涙が溢れ出てきた。

怒涛のごとく襲ってきた感情の正体は、“自責の念”だった。

つまり私は苛酷な生活が待っている海岸へ、ランとアスカを置き去りにした自分を激しく責め始めたのだ。



部屋に戻り空っぽのケージを見た瞬間、それまで我慢していた嗚咽が堰を切ったように漏れてきた。


〔 ふん、まさに自業自得というべき仕儀じゃ。己の悪行に気がついたのは殊勝と言いたいが、遅きに失したようじゃの 〕

「‥‥」

〔 その野良猫の母と子はおぬしの部屋に招かれた時点で、向後は親子ともども安逸に暮らせると安堵したのであろう。その母子を再び剣呑な海岸へ戻すとは‥‥、むごいことをするものじゃ 〕

「あんたに言われなくても分かっている。だから‥‥」

〔 だから、悔悟の涙を流したと申すのか? 〕

「ああ‥‥」

〔 それから1年と4カ月後に子供は消息を断ってしまったというわけか。しからばこのとき海岸へ戻さず、ほかの手段、たとえば里親を探すことは考えなかったのか、おぬしは? 〕

「それができない事情はあんただって知っているだろう。その頃は実家の父が入院していて、いつ故郷に呼び戻されるか分からない状況だったんだから」

「そうなったら愛猫の風ひとりなら妻の実家で預かってくれるけど、それが限度と以前から言われていた」

〔 ふむ、そうであったの。実際に相手をする内儀の母上に雑作を掛けるからの‥‥‥、 是非もない 〕

「でも‥‥」






「やっぱりあのときアスカだけでも保護していれば、行方不明にならずにすんだと思うと、今でも心がひどく痛む」

〔 儒教の祖である、かの孔子が『 三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る 』と言うておるが、いい歳をして惑うてばかりいるおぬしに箴言を遣わしてやろう 〕

「はぁ‥‥?」

〔 『 水の流れと身の行方 』 〕

〔 これは孔子の教えを継承した孟子の言葉じゃ。この言葉の真意がおぬしに分かるか?〕

「いや‥‥」

〔 これは面妖なことを、おぬしも先度、『 人生もまた、水の流れに似ている 』と申しておったではないか 〕

「ああ、あれは方丈記にある『 ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず 』という世の中の無常観を表した言葉からの連想だから」

〔 ふん、半端なニンゲンの分際で猪口才な‥‥ 〕

〔 ま、その鴨長明の言葉と通底しているかもしれんな、孟子の言葉は 〕

〔 孟子の言葉の文意はな、『 水の流れの行く先と人の行く先は、どちらもはかり知れないし、前途がどうなるか分からない。所詮自然の成り行きは止められない 』というものじゃ 〕

「‥‥」

〔 つまりの、おぬしが野良猫の母子に手術を受けさせたことも、その際に己の茅屋に一泊させることになったのも、その後子供が行方知れずになったのも、いわば自然の成り行き 〕

〔 なのにおぬしは、己の裁量のせいで猫たちの運命が変わったなどと考えおって、そのこと自体が傲慢と知れ!この痴れ者めが! 〕

「し、しかし‥‥」

〔 えーいっ!しかしも案山子もないわ!己の心さえ不如意なくせに、猫といえどもほかの者の運命に関わろうなどとは百年がとこ早いわ! 〕

〔 ふーっ、久方振りに長広舌をふるったせいで、それがしもいささか疲れた。おぬしは話の続きをとくとくいたせ! 〕

そう言いながら “厳格な審判者” は、私の無意識の深部へ静かに沈んでいった。


防砂林、ここは不思議な場所だ。樹木が茂っているが、いわゆる “自然” ではない。

飛砂による被害から農地や人家を護るために、ニンゲンの手によって植えられ管理されている “作り物の樹林” である。


だからここには本来自然が持つ優しさや厳しさといったものは皆無で、樹木たちも指定された場所に取り敢えず佇立している、という風だ。
ランはさっきから捨て置かれた松の幹の上に端座して、防砂林の一角をじっと見つめている。


そこには灌木が繁茂しており、ニンゲンが容易に足を踏み入れられる場所ではない。


あたかもそこが特別に神聖なところでもあるかのように、ランは身じろぎしないで凝視し続ける。



尋常でないランの様子を眺めていた私の脳裏に、ふいに不吉な考えがよぎった。


そこで私は思わずランに声をかける。「ラン、そこには何かあるのか?」



するとランはすぐさま私を顧みた。その眼は驚いたように、一瞬見開かれる。まるで私がその場にいることが意外だと言わんばかりに。


どうやら私の存在を忘れるほど、ランは何かに意識を集中させていたようだ。



そのランが、今度は不意に樹上を見上げる。



ランの視線を辿って私も振り返ってみたが、そこには西に傾いた太陽のまばゆい光が樹間から洩れているだけだ。


ややあって私が視線を戻すと、ランは既にさきほどと同じ姿勢で眼前にある灌木の茂みを見つめていた。

防砂林の中と外では、しばしば時間の流れが違って感じられるが、この日はランだけが異なった時制に属しているような錯覚がある。


やがてランは倒木から降りると、ゆっくりした足取りで歩き始めた。



ランが向かうところは、どうやら今まで見つめていた灌木の茂みのようだ。









灌木の茂みに姿を隠すまで、ランはただの一度も私を振り返らなかった。



こうして薄暗い防砂林の奥部に私は独り残された。


ランが見つめていた灌木の茂みには、いったい何があるのだろう。



あの場所には無理をすれば行けなくもないが、何故か興味本位で足を踏み入れてはいけない気がした。


防砂林から出て海岸を散策しているうちに、太陽は西の山の端(は)にその姿を沈めていった。



振り返ると、薄暮の空に弓張月がためらいがちに顔を見せていた。

「アスカもどこかの窓から、この月を眺めているかもしれないな‥‥」



〈了〉



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